仄かな燈火

渡部唯生

小説について

小説、という文芸ジャンルについて。よく物語と小説が対比的に論ぜられる。物語は中世まで、書物としてだけではなく口承文芸として、また様々な歌謡の題材として等、盛んに読まれた。一方で小説は本質的に近代的なジャンルであって、物語批判、特に社会的現実の立場からの物語の批判の形式を採りながら読者を楽しませるものであった。セルバンテスの「ドン=キホーテ」が好例であろう。騎士道物語を風刺しながら、語られた小説である。

小説の歴史的本質がある種のリアリズムによるフィクションの批判であるということ、この時フィクションの中には、世間を浸している世界観や常識なども含まれる。たとえば自民党政権を支えている政治的神話に対する、それは虚妄であるという批判が、物語批判として可能でなければならない。

小説の特質としては、自己言及性もまた指摘できるだろう。小説は、自己がフィクションであることを知っているフィクションである。読者も作家も、それを真実の告白であると信じて関係するのではない。初めから虚言であるという前提で、つまり虚言でない真実がどこかにあるという前提で事は進む。にも関わらず、作品は成功するなら、それが創作物であることを忘却させる。虚の中で真実を経験させられるのである。

 

書かれるべき小説、読まれるべき小説01

文学は人間本質に根ざすものである限り、自由なジャンルであることは今更言うまでもない。だが、書かれる<べき>小説、読まれるべき小説、というのは確かに存在するだろう。「教養=自己形成」などと言うと語弊はあるが、文学が単なる消費目的のエンターテイメントでなく、人間にとり人格的な価値を有するものであるならば、そのような文学には、人間の理念、人格性の理念が豊富に含まれているものと考えられるべきだ。「現代文学」が真にその名に値するのは、現代社会の文化が、それらの普遍的理念に対しいかなる正負の作用をし、人格を困難に陥らせているかを問題としたものであることが多いが、我々はまさに生活上、理念の追求を阻まれているのであり(疎外論の問題である)、そのことを書くことは最低限の社会性であるのは当然である。

 「現代文学」は、実験の時代を経て、形式的可能性の追求は断念しているものと思われる。表現様式は多様であり、流派というほど顕著な差異は作家間に認められにくい。

「民主文学」はプロレタリア文学の伝統の継承者として、リアリズム文学の拠点として価値がある存在であるが、商業誌と等しく、表現を巡る時代の困難に直面しているはずだが、内容面で現代の矛盾に立ち向かうあまり、表現そのものの困難にはあまり自覚的でない作家が多いようである。

 批判的文学であるにせよそうでないにせよ、我々が生きるこの<現在>を生き生きと描くためには何が必要か?時代を呼吸し、その本質を嗅ぎ取る鋭敏な嗅覚が作家には求められる。作家にとって、時代そのもの、歴史そのものの批評家であることが重要な資質である。だがそれは、作品の主題および内容面について言われるだけでなく、形式面においてもそうなのである。作品は時代的形式を帯びて始めて同時代の読者に訴えかける。従って、現代文学には常に<現在>の現実をめぐる内容と形式両面における把握が求められている。

2023/5/21

世界の最上の目的は、世界自身の乗り越えである。世界が次元の異なる、質的に飛躍した存在へと移行することである。理想社会と言う者もその極限の状態においては、およそ社会として考えられたあらゆる制約から自由になり、「社会」とは別の語によってその共同的実在性を指示することが必要になる。それは社会概念の内部にあって、我々人類に課される義務的な目的性を担う究極の発展である。およそ人間的事象にはこの義務が貫徹しており、いかなる個人的信条、個人的倫理も超えて、このような自己否定的な義務が常に作用している。

共産主義>の運動は、人類がその始まりから可能性としては有していたこの義務を正面から提示し、<革命運動>として取り組まれているものである。そこに否定性がある限り、それを乗り越えようとする運動が絶えることはない。これは人類の本性に関わることである。人間は弁証法的存在である。弁証法という概念は、世界の存在様式とそれを映し出す人間の存在様式に根ざしている。誰もそれから逃れることはできないのである。

天国の表象

人間が真に幸福であるためには、社会そのものが幸福である必要がある。社会とは人間関係、特に労働を通じての人間関係であるから、労働関係がまず幸福でなければならない。絶対の幸福の表象を天国ということもできるし、涅槃ということも出来る。理念は自由であり、幸福であるから、理念とその表象は、現在の現実の社会がどれ程の価値を持つかを定め、批判する基準となる。社会のある部分は幸福であるように見えるし、ある部分は絶望的に悲惨である。発展とは理念の実現過程であるから、自由や幸福の度合いが、またその質が、社会批判の基準となる。資本主義社会はどうか。資本主義の本質をなすのは、資本家と労働者の階級対立である。対立がある以上、そこには幸福と不幸、自由と拘束とが併存している。そして弁証法の相互浸透により、幸福の裏に不幸が、自由の裏に不自由が蔓延っている。階級対立の消滅とは、アウフヘーベンである。不幸なき幸福、拘束なき自由が、平等により保障される社会が、無階級社会である。

疑問集2

我々にとって「問題」とは何か。我々は何を問うべきか。人類は生きるべきか、滅びるべきか。生きるべきなら、何を目指すべきか。なぜ自由は最高の理念なのか。人類の自由と個人の自由はどのような関係を持つか。全知全能が自由ならば、善や正義は完全性の側面か。マルクス思想の本質は何か。科学的社会主義における人間、歴史、社会とは何か。原遊動性と自由の理念の概念は等しいか。精神の自由とは何か。

疑問集

神の存在は神を信じる事が出来るか否かにかかっているだろうか?希望はどこに見出す事ができるだろうか?我々にとっての希望が存在しなかった時代が過去にあっただろうか?マルクスはなぜ革命の事業を志すに至っただろうか。希望がなくても満たされて生きていく多数者の存在は希望を示してはいないだろうか?科学的社会主義の本質をどこに求めるべきか?思想の体系性とは何を意味するか。ヘーゲル哲学の体系性を構成する諸概念は何か。万物の体系性とは何か。革命の条件と可能性とは何か。革命の条件の実践的発展とは何か。なぜ日本共産党は支持を拡大しないか。なぜ自民党は支持されているのか。選挙で勝つためにはどんな実践が必要であり、その条件とは何か。世界の構造概念とは何か。世界を作り出す労働の実践性が解放されるとどんな世界が作られるか。新しさや未来とは何か。一人の人間に可能な最大の行動は何か。全ての真理は科学的社会主義と関連づけられるか。

私と科学的社会主義

科学的社会主義マルクス主義)という体系的理論。なぜ私はそれを学び、研究するか。私の根源的な欲望に有益であると考えられるからである。私の根源的な欲望とは何か。それは万民と同じく、「あらゆる世界が良くあれ」という欲望である。それは多くの場合に別の、より具体的な欲望に転換して見失われているが、万民に内属する欲望であり、赤ん坊の泣き声のように自然な欲望である。この欲望を、願いとして意思として理解する時に、私は革命の必要を知る。そして革命のために人類が到達した最高の知は、科学的社会主義の中に求めざるを得ない。

貧困、病苦、差別、障害、犯罪、あらゆる否定的な状態はその解決、肯定性への復帰を求めている。そこに私は革命の根拠を見出す。科学的社会主義は、この世界のありのままの状態を、虚飾、虚偽、隠蔽のため直接には知り得ない世界の真実の姿の理論的表現である。この理論を元に、個々の具体的な問題を分析し、理解する事から、問題解決の具体的方法が示されるし、そうでなくてはならない。