仄かな燈火

渡部唯生

問題集

・ガザの状況を改善するためには、どうしたらよいか

マルクスは資本の運動法則を明らかにしようとした。その運動法則の認識は革命運動に何を与えたか。また、与えうるか。

・今の生活条件の中で、私に何が可能か。

日本共産党の方針の評価は、いかなる方法で可能か。

現代文学と、自分の文学の関係性について

・現代文化批判

・日本経済の現状と発展のための提言の内容

ウクライナ戦争について

・平和の言説について

・神の観念の正しい内容について

マルクス

マルクスにとって社会が現実的対象である。勿論、今を生きる我々にとっても、現実的である事は社会的である事だ。孤立した個人、文明以前の未開人は、抽象的存在であり、社会的関係なしに我々は生存できない。現実とは抽象的個人の想像物ではなく、社会的人間が他の人間と取り結ぶ関係性においてある。社会なしに我々は誕生する事も生存する事もできない。論理も科学も、社会が先行して初めて成り立つものだ。

考えるべきこと=考えたいこと

思考そのものは内的な活動であって、そのままでは、それ自体としては無力である。だが思考は認識と判断を左右し、意志という形態を通じて、ある人格の行動に影響する。また、思考は、言葉として発言される事で他者の思考に影響する。

課題のない思考というものはない。全て思考は何らかの問題を解決するために行われる。世界には無数の問題が存在する。あらゆるものが本来、知られていない。思考は、対象を知ることであり、問題を解く事である。問題を知り、解法を知ることで、答えが知られる。問題とは謎である。未知であることだ。

思考の起点をどこに求めるべきか。それは初めから与えられている条件ではない。思考の起点とは、思考そのものの根拠であるともいえる。我々はたいてい、無意識に、自然に思考しているが、意識的な思考も可能である。真理と虚偽でいうなら、虚偽もまた知られる。だが虚偽の知は深められる事で、それが虚偽であることをも知られる。思考にはまた、精神の呼吸のような所がある。生き生きとした精神は、意識せずに考えている。あらゆるものが思考の対象になりうるが、有限な存在である我々は、思考すべきものと知らなくて良い事とを評価、選別しなくてはならない。

思考の起点とは、最も単純な、原理的な問題を対象とする思考の事だ。最も単純な、始原の問題とは何だろう。この世界で、また、どの世界でも、第一の問題とは何だろう。私も同一性も、存在も神も、それを与える観念ではないのではないか。第一とは、始原であることだ。始原の観念は、それに後続するものを含んでいる。存在と無を含んだ、万物の同一性、永遠の観念が始原の観念に対立する。存在が無であり、万物が同一であり、時間が永遠であり、空間が無限であるという矛盾より外部には、我々は何も手にする事はできないように思われる。

 

 

 

政治について

大学時代にデモへ行くようになって20数年経つわけだが、いまだに政治が嫌い。政治に興味なんてない。必要だから知ろうとするだけだ。全く趣味に合わない。そもそも私がマルクス主義に惹かれたのは、政治そのものの廃止を目指すからだ。

 

【社会の発展について 科学的社会主義03】

「発展」はどんな形態の社会にも期待できるわけではない。資本主義以前の社会、つまり封建制農奴制、原始共産制といった経済的社会構成体では、発展はゼロではないにしても、その進行は極めて緩慢なものだった。生産技術も、人口も、社会関係そのものも、真に「発展」が目覚ましいものとなったのは、封建制の崩壊以後の事である。だが、技術や人口の量的拡大、富の蓄積などは、それ自体として発展を直ちに意味する訳ではない。「発展」を論ずる時、我々は歴史の目的の観念を導入しなければならない。発展や進歩というものは、その目的の実現のプロセス以外のことを意味しないからだ。

目的とは、より客観的に換言すれば理念そのものである。我々が継続的に何らかの努力をする時には、必ず何かの実現を目指している。その実現さるべきものを理念という。理念は、また存在の構造として言い換えるなら、本質である。我々が理念として掲げるものは、いまだ実現しないでいる我々自身の本質に他ならない。

つまり社会の発展とは、社会の本質、人間の本質が、言い換えればその可能性の全体が現実化するプロセスであり、社会の本質とは何か、人間の本質とは何かが、歴史的問題として我々自身に問われてくるのである。(ただし、この意味での本質とは、マルクスが言う“類的人間本質は諸関係の総体である”というテーゼとは少し意味が異なる。)

そして人間の本質は、二重の意味で<自由>であり、従って歴史の発展とは、自由の実現過程であることになる。

科学的社会主義2

階級の存在。プロレタリア階級という言葉は、日本共産党の内部ですらほとんど聞かれない。それほどまでにプロレタリアートの人口比率が高まり普遍化したのだともいいうる。我々は古典的なマルクス主義のタームに郷愁を感ずるようなジレッタントであるべきではなく、プロレタリアという概念の未来に向けた可能性をこそ探究すべきである。「二重の自由」や「鉄鎖の他に失う物を持たない」といったレトリカルな表現だけではロマン主義的な労働者像が思い起こされるだけで、何の役にも立たない。プロレタリア概念の本質は言うまでもなく、階級廃絶の使命をその存在に担わされている点にある。言い換えれば、共産党が階級廃絶をするのではない。プロレタリアが国家を死滅させ、階級を永遠に廃絶するのである。党とプロレタリアの関係は、党中央と一般党員の関係ではない。社会の圧倒的多数者としてポピュリズムの嵐の中を右に左に揺れ動くプロレタリアの去就が、民主主義革命を着々と準備している。主体は常にプロレタリア階級であり、階級的存在としての集団的可能性を、党員はそれぞれに意識し、働きかけ、また自分の物にしなくてはならないだろう。政治の舞台は国会だが、この舞台の土台は階級関係である。

科学的社会主義について

科学的社会主義の本質としては、マルクスが「資本論」で明らかにした剰余価値の学説が挙げられる場合が多い。それは正しいが、どういう意味で剰余価値論が本質的と言えるか。まず資本主義社会の目的が剰余価値の取得にあるという点。資本主義社会の富の実体が剰余価値である点。剰余価値を形成する不払労働の存在が、資本主義の搾取労働の疎外の本質である点、これらは諸家共通していわれる所だろう。たとえば我々が都心で目にする高層ビル群なども、基本的には剰余価値の取得の産物である。

剰余価値の理論が十全にその対象を明らかにしえているかは疑問なしとしない。利潤の源泉を他に求める理論も多く、そのすべてに反証をなしえているかは分からない。剰余価値こそが科学的社会主義の神秘であり、また非常に具体的な、素朴な詐術に過ぎないとも言える弁証法的な極点をなしている。労働者は、自分が働き過ぎた分の価値が、回り回って帝国主義戦争を招いたなどと考えはしないが、そう考えねばならないのだ。