仄かな燈火

渡部唯生

【社会の発展について 科学的社会主義03】

「発展」はどんな形態の社会にも期待できるわけではない。資本主義以前の社会、つまり封建制農奴制、原始共産制といった経済的社会構成体では、発展はゼロではないにしても、その進行は極めて緩慢なものだった。生産技術も、人口も、社会関係そのものも、真に「発展」が目覚ましいものとなったのは、封建制の崩壊以後の事である。だが、技術や人口の量的拡大、富の蓄積などは、それ自体として発展を直ちに意味する訳ではない。「発展」を論ずる時、我々は歴史の目的の観念を導入しなければならない。発展や進歩というものは、その目的の実現のプロセス以外のことを意味しないからだ。

目的とは、より客観的に換言すれば理念そのものである。我々が継続的に何らかの努力をする時には、必ず何かの実現を目指している。その実現さるべきものを理念という。理念は、また存在の構造として言い換えるなら、本質である。我々が理念として掲げるものは、いまだ実現しないでいる我々自身の本質に他ならない。

つまり社会の発展とは、社会の本質、人間の本質が、言い換えればその可能性の全体が現実化するプロセスであり、社会の本質とは何か、人間の本質とは何かが、歴史的問題として我々自身に問われてくるのである。(ただし、この意味での本質とは、マルクスが言う“類的人間本質は諸関係の総体である”というテーゼとは少し意味が異なる。)

そして人間の本質は、二重の意味で<自由>であり、従って歴史の発展とは、自由の実現過程であることになる。